昔、15歳でオリンピック選手になった岡崎聡子さんの獄中手記を紹介します。これまでに薬物で何度も逮捕されています。
薬物依存の恐ろしさもさることながら、自分が叶えられなかった夢や理想を託す親と、それを叶えようとした子供の話に胸が締め付けられました。
天真爛漫なイメージとは想像できないほど、とても繊細。不安で孤独を感じていることさえも自己批判してしまう厳しさ。岡崎さんの両極端な人生から、何かが分かるかも知れません。
全文は、11月7日発売の月刊「創」12号に掲載されています。
【岡崎聡子さんの獄中手記】
赤いランドセルを背負い、道草が日課の私だった。
母の夢。
「バレリーナか、体操をやりたかったわ、戦後のこの国じゃ、夢のまた夢よ」
3歳からバレエを習い、9歳から体操を始めた。
母の夢が私の夢へと変わる。
毎日が楽しくてしかたない。
憧れの選手に近づくために、一歩一歩本気で進む。
そんな無邪気な一方、成長するにつれ、自分の存在が、常に正しく、努力家で、少し胸の張れる人間でいることを、自他共に求めてきたところもあった。
いつからだろうか、時々、心に堅い鎧をまとうようになった。
大きなケガが重なったころからだったのか?
天真爛漫とは裏腹に、必要なこと不必要なこと共に耳を塞ぐようになった。
小さな私だけの箱に引きこもり、頑張れない自分、弱い自分が受け入れられず、認められない。
心は常に孤独だった。
のちに、私は薬物使用で逮捕される。菊屋橋留置所の面会室。
アクリル板の向こうの母の、指先のふるえが止まらない。
「あなたのおかげで、声が出なくなったわ、“失語症”」
小さなかすれた声でそう話す。
これを皮切りに、薬物使用を繰り返す私に
「あなたのせいで、私は全てのものを失ったわ」
悲しい目で、度々つぶやく母。
私には返す言葉もない。
件の母も、父も、子供たちの父親も、前刑、公判中、受刑中にそれぞれ他界した。
今となれば、そんな母の愚痴さえも、懐しく思える。
でも、誰のせいでもない。悪いのは、全て私なのだから、キツかった。
受刑生活を繰り返してきた私だが、薬物使用を良いことだと考えたことはない。
“やめたい”と思う気持ちはもちろんあるが、その思いが、どれほどのものだったのかと問われれば、いかんせん、心もとない。
いつでもやめられる。そのための懲役であると思っていた。
しかし、現実は違っていた。
ほんのひとときの夢を前に、ためらいも、罪悪感も、“二度と再び薬物に手を染めないでほしい”と願う人たちの思い、言葉の全てが無力だった。
自業自得と自嘲して、刑務所(ムショ)帰りのレッテルを他の誰でもない、自分自身が貼りつけて絶望……。
自分に嘘をつくそんな自分がますます許せなくなる。
すべての悲しみを忘れさせてくれる薬。
楽になりたいと思い使う薬が神経をヘトヘトにすり減らすものになるなんて……
人生を投げ捨て、夢を追い、傷を負い、誹謗中傷どこ吹く風、やさしさや、愛に満ちた言葉でさえ、“問答無用”切り捨て、一瞬の夢を求め続けた。
大切なはずの家族、多くの人、自分を傷つけながら。
行き着く所は、塀の中。
迎えてくれる両親ももういない。
前刑初めての満期出所。実質4年半ぶりの社会での生活は、穏やかで明るいものに違いない。
出所の嬉しさと、二度と戻りたくないと思うプレッシャーの中…。
(いったい何をやっているんだろうか)
また薬物を使ってしまった。